本の中の言葉

 通じないことがわかっていて話す馬鹿はいない。通じそうなところを通じそうに語ろうとする。知恵を働かすのだ。つまり、通じにくそうなところは馬鹿になる危険があるので避ける。したがって、われわれは普段、通じやすい話題か、通じやすくした話だけをしゃべることになる。
 表現という行為は、こんなところに発しているものではないだろうか。通じにくいものが捨てられないということだ。通じやすいことの表現では満たされないものがあるということである。そして、表現者とは、その通じにくいものを捨てられない者のことである。
 言いかえればこうだ。通じにくいものだけが、表現するに値する。<なにがどうした>では語れぬものだけが、表現するに値する。
  「劇の希望」太田省吾 筑摩書房

週刊誌の中の言葉

平田 まず、「今の若者はー」と言っている主な層は、中高年の男性だということです。つまり、彼らにとってのコミュニケーション能力を、今の若者たちは持っていない。でも、必要とされるコミュニケーション能力は、文化や時代によって変わっていくんです。だから、そういうことを言うオヤジ評論家に言ってやりたいのは、「あなたたちより今の小学生のほうがダンスはうまいよ」っていうこと。
阿川 ダンス?
平田 ダンスが他者に気持ちを伝える有効な手段である国は、世界にいくらでもあるでしょ。ブラジルとかキューバとか、日本の中でも沖縄とか。そんな国なら、日本の中高年男性は最もコミュニケーション能力の劣った人たちになってしまう。

 週刊文春 「阿川佐和子のこの人に会いたい」第951回 平田オリザ

週刊誌の中の言葉

ー「あいつのことを説明するのはとてもむずかしい」と言われるやつになりたい。影響を受けやすい人でありたい。
 踊っているとき、頭のなかで、物事が最も速く流れている。このときが自分の一番好きな状態で、それが踊っているときなんですね。
 だから僕の踊りには「引退」はありません。ダンサーからの「退職」もない。踊りは僕のなりわいで、自分を成り立たせている最も大事なものこそ、なりわいですから。
 田中泯 「週刊文春」12月6日号

文庫本の中の言葉

 ハイデガーは死を「不可能性の可能性」とか「追い越しえない可能性」などと呼んでいますが(『存在と時間』)、このように曖昧かつ難解(そう)な表現を使うのがハイデガーの悪い癖で、彼が言いたいことは、ただ死の場合には、−他の未来の事柄と異なりーあとで振り返って過去形で「私は〜であった」と語る機会がないというにすぎません。

「『私の秘密ー私はなぜ<いま・ここ>にいないのか』中島義道                             講談社学術文庫 

週刊誌の中の言葉

『華麗なるギャッツビー』の中で青年が「結局、一つの窓から外を眺めているほうが世界のことがよくわかる」と言っていますが、僕にとっての映画がまさにその「一つの窓」なんです。いろんな視点で何かを見るよりも映画を通して物事を考え、撮っている最中に登場人物たちのことを見て、人間を考えてますから。

 週刊現代11月10日号 映画監督 犬童一心

冊子の中の言葉

 歴史的には、89年6月7日にジャン・ラニアによって「ヴァーチャルリアリティ」という言葉が初めて使用されます。計算機で表現された三次元空間の中に入って、さまざまな体験をすることが「ヴァーチャルリアリティ」という言葉で語られたわけです。私はこのとき、言葉とはこれほどの力があるものなのだということを初めて実感しました。
 それまでは「三次元空間のインターフェース」であるとか、私たちはいろいろな言い方をしてきたのですが、この用語で「ああそうか」と腑に落ちたわけです。領域の命名は非常に重要なことで、研究者の意気込みには劇的な変化が起こったと思います。

 「LOOP−01」 廣瀬通孝 「VR技術の20年」

 
  *一つの言葉の登場が決定的な役割を果たすんだねー。反対に言葉が生まれない分野は停滞するかもしれない。言葉を生み出す能力のある分野は、人材に恵まれているということだね。