雑誌の中の言葉
ー「もしも『我々は何者か』という命題を幼稚園児から聞かれたとしたら、藤井さんは何と答えますか?」
「世界の一部ですね。個というものはない。本来は、たぶん境界がないはずなんです。もしかしたら人以外の生き物、もしくは高次霊長類以外は、境界という意味であまり個というものをもっていないのかもしれません。それを切り離してしまったことで、僕たちの不幸は始まったのではないかと思います。本来は一部です。
外部との相互作用の結果として意識は生まれてきます。主体は自分の中にあると思った方が幸せですから、そうおもって差し支えないと思うのですが、実態はやはり相互作用の結果で生まれてきているものだと思います。−
「私たちはどこから来て、どこへ行くのか」 森達也 「ちくま」NO503
リーフレットの中の言葉
ー舞踏なんかを知る前に、能を観ていた事があったんですけれど、銕仙会で、「船弁慶」という、少年が義経役でそれを弁慶が平家の悪霊から守るというストーリーですが、その義経役の少年が初めて舞台に出たもので、舞台の上で吐いちゃったんですよ、それで結局、舞台と楽屋のあいだを何回も何回も出て来たが結局舞台に出られなくなってしまった。で、どうしたかというと、そのときたまたま銕仙会で観世英夫が後見をやっていて楽屋へ少年の世話したり、結局少年義経が舞台にはいないまま周りはいるものとして演じ義経の謡は観世英夫が後ろに座ったまま、居ない主人公の台詞を謡う。ああ、後見というのはこういう事か・・、で、その当時、まだご健在でいらした朝日新聞に能の評を書いていた長尾一雄さん、舞踏にも精通していた人でしたが、そんな話をしたら「えーっ、そんなもの私も観た事が無い」と仰っていて、能では、舞台で人が死んだら止めよう、というのを1968年に取り決めたそうで、つまり、能というのは戦場の武士達がやるもので、だから死んでもやるんです。死んだってそのままやる、その為に後見がいるということを初めて知って、へーって思ったんですけど。−
テレプシコール通信 1月2日 NO134「佐藤正敏氏の講評」
新書の中の言葉
ーもし死ぬ時に「女優さんの共演者で一番誰に惚れたか」と聞かれたら、それは夏目雅子さんです。
女性としても女優としても、どちらも魅力のある方って少ないんですが、彼女は女優としてだけでなく女性として、人間として魅力的でした。『鬼龍院花子の生涯』の撮影に入るときには、あの子はもう病気だったんですよ。それで、撮影前に私に「仲代さん、私、病気持ちでして、ここに大きな傷跡があるんです。それで、仲代さんとはラブシーンがあるから先に見せておきます」って、パッと着物をはだけさせて、胸元の手術跡を見せてくれたんです。その時、これは凄い人だなと思いました。わが身を削ってまで、共演者に気を遣ってくれたわけですからね。